浄土真宗本願寺派 小倉御坊 永照寺
永照寺
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御文章開き

 

1月8日は御文章開き。
御文章とは本願寺8代目蓮如上人がお書きになられたお手紙のことです。
浄土真宗の大切な教えがお手紙の中に凝縮されています。
お朝事(朝7時のお勤め)は365日お勤めしていますが、1月1日からの1週間だけは
御文章をお勤めしません。

8日に今年初の御文章を読ませていただきます。

数あるお手紙の中から当山では『掟の章』を拝読しています。
今年は本当に寒く、手がかじかみました。
そんな中、我が声を通して耳に流れる蓮如上人のお言葉。威儀が正されます。

 

「掟の章」( 原文は浄土真宗聖典【註釈版】1117頁を参照ください )

(現代語訳)

さて、当流の他力信心の趣意をよく聴聞して、それを決定する人があったならば、その人はその信心の有り様をこころの底に収めておき、他宗他人に対してかれこれ論じてはなりません。また、旅先にあれ各自の在郷にあれ(屋内であれ屋外であれ)、無遠慮に人をはばかることなく仏法についての話をしてはなりません。さらには、守護や地頭に向かっても、自分は信心を得たのだからといって疎かにすることなく、むしろ一層公の義務を滞りなく行うべきです。また、諸神・諸仏・菩薩も疎かにすべきではありません。これらはみな南無阿弥陀仏の六字の中にこもっているからです。またことに、外には王法を守り、内心には他力の信心を深くたくわえて、世間的な仁義道徳にも従いましょう。これらが、とりもなおさず当流に定めるところの掟の趣旨であると心得てください。

あなかしこ、あなかしこ。

文明六年二月十七日、これを書きました。

 

まわりまわってやっぱり沈黙は金

~他宗他人に向かって、また、路地大道、自分の在所等で教えをあらわに語ってはならない~

例えば食事ひとつにしても
人のことを考えず、気儘(きまま)に注文して残す人もいれば
「他の人の分がなくなるからこれ位にしておこう」と節度を持つ人もいます。
阿弥陀さまは、我々に条件を求めず「そのまま救う」とおっしゃってくださいます。
だからこそ、節度(たしなみ)を持たねばならないのです。

我が仏、隣の宝、婿舅(むこしゅうと)、天下の軍(いくさ)、人の善悪(よしあし)
利休の弟子である山上宗二が茶席で避けるべき話題としての残した詩です。
自分の宗教や他人の財産や家族のこと、政治、人の悪口についてはトラブルになり易いので避けた方が賢明というご教示ですね。現代ならこれにプロ野球なども加わるかもしれません。

大切なのは「私」と「如来様」の問題です。
『あの人より深い信仰を持っている』と自分の信仰をひけらかして優位にたつ必要はないのです。
また、押しつけがましい布教は、かえって相手の尊い仏縁を奪ってしまうことにもなりかねません。
己の信仰は心の深い部分に大切にしまい、必要な時に話せばいいのです。むやみやたらに喋らなくてもいいということです。

 

独りでは生きていけないから

~守護・地頭に対して公事を全うしなければならない~

信仰に生きているから世俗と離れる。気持ちはわかりますが、離れているつもりのそこも世俗なのです。
日本には国民の三大義務があります。教育、勤労、納税です。この義務を果たしていくことは「社会の一員である私」という観点からは非常に大切なことです。

稀に「私は一人で生きています」と豪語する人がいます。本当の独りなら真空パックに入って無酸素状態で生活しなければなりません。あっ、真空パックすら誰かの作ったものですね。結局ひとりでは生きていけないのが私です。独りと思ったその時も、独りではないのです。

たくさんの命や想いの結晶が私となりました。言いかえるなら、お陰さまの塊が私です。自分本位の勝手な行動、考えを慎み、国や社会に役立つことを少しは考えるようにしたいものです。

比べて安心からまかせて安心へ

~諸神・諸仏・菩薩をおろそかにしてはならない~

「私は阿弥陀さまによってしか救われないので、他の諸神、諸佛は一切拝む必要がない」と考えていた当時のご門徒たちを、蓮如上人は「浄土真宗以外の佛教や神道も尊重するべきである」と戒めました。『諸仏諸神は阿弥陀様を護っている』『仏や菩薩が衆生をすくうために神という仮のすがたであらわれた』という考えがベースにあります。
しかし、蓮如上人が最も伝えたかったことは「重要なのは阿弥陀さまの願に遇うことであり、他の宗旨に排他的になることではない。本質を見失ったほしくない」いうことだったのかもしれません。

阿弥陀さまの慈悲(ぬくもり)に、出遇った時、虚勢を張ったり、見栄の化粧で顔を塗りたくる必要がなかったと身体が納得し、「すっぴんでよかったんだ。すっぴんにしかない仕合せ、安心があったんだ」と気づかされるものです。比較の中から生まれる仕合せは比較の中で壊れていきます。阿弥陀さまの慈悲の中に生きるということは「比べて安心からまかせて安心」の世界への転化を意味します。

 

時代や世間に流されず 逆らわず

~世間の規則(王法)は遵守すること~

水車は水につかりすぎても回転しません。離れすぎても回転しません。俗に流されると聖なるものは消えさります。聖にかたよると机上の空論で終わります。いくら立派な水車でも回らなければ意味をなしません。「外には王法を守り、内心には他力の信心を深くたくわえて」とは最低限の社会通念、法律等は遵守しながらも、あくまで阿弥陀様の教えが軸であり、あまり世間の用事に振り回されることなく私らしく堂々と生きていこう!ということではないかと味わいます。

 

 

 

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