浄土真宗本願寺派 小倉御坊 永照寺
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今月の法話

今月の法話:2012年12月

師走

持つべきものはアウトサイド・イン

『見えない弾がいつもどこにいても飛んでいる。それに当たって死ぬなんて誰も信じていない。でもその見えない弾は無数にこの平和な街に放たれどこにでも飛んでいる。それが見える人には殺人も事故死も唐突ではない。』ある映画のナレーションからの一節だが、今年一年、何発の弾が頬をかすめたのかさえも意識しないまま、平和ボケな一年を過ごすことができた。

人間の目は外を見るようについているので、どうしても己の姿や考え方が確認できない。「インサイド・アウト」「アウトサイド・イン」というゴルフ用語があるそうだが、もともとはパイロットが使う言葉らしい。飛行機は滑走路を移動しているときは車と一緒で、障害物に注意しながら走る。
この時の操縦士の視点が「インサイド・アウト」だ。その後、テイクオフをし、水平飛行に移ると「アウトサイド・イン」に変わる。つまり雄大な空から自機がどのように見えているか?という導いてもらう視点に変化するのだ。人生を飛行機におきかえてみると、どうもインサイド・アウトで見ていることが多い。”他人のことが気になって仕方がない”、”外にある障害が気になってしかたがない”。そのために、障害がなければと他人のせいにする。

長年ブログを読んでくださっている方が、人間の醜さを書いた記事に「『人間ってコールタールのように汚く、醜いものだと思う。それを思想や学歴、地位や衣服と言うチープな衣装に身を包んで善人面しているだけのことだ』その通りだけに苦しいほど悲しくなる。いくら頑張っても輝けないよ。』というコメントを残して下さった。私もそう思う。普段なら同調する返信をするはずだが、指が勝手にキーボードを叩いてた。迷答凡愚が偶然に何かに邂逅した瞬間だった。

『きっと輝かなくていいんですよ。
太陽ですら自分が輝いていることに気付いてませんよ。きっと』

自分で自分の輝きには気付けない。しかし、「このいのち」が「このいのち」にしかない輝きを放っているのだと如来がメッセージをくれる。私の輝きを外から教えてくれる究極のアウトサイド・インが存在するのだ。 外を見る目は親がくれる。内を見る目は自分で持てないので、みてくださるはたらきを通して気付くしかないのだ。多くの懺悔と少しの歓喜の内に一年が終わろうとしている。 全ての出来事に感謝する。頭がかち割れる位に感謝する。都合の善し悪しを超えて仕合せだと。

(平成24年12月の法話 担当:村上 慈顕)


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