浄土真宗本願寺派 小倉御坊 永照寺
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今月の法話

今月の法話:2013年2月

如月

骨になるより

【よろこび お彼岸号(2013年)掲載】
生死(しょうじ)の苦海(くかい)ほとりなし
ひさしくしづめるわれらをば 弥陀弘誓(みだぐぜい)
のふねのみぞ のせてかならずわたしける

先日、非行少年をあずかり共同生活する家族の様子が放送されていた。少年に対して家族は精一杯の愛情を注いだ。虐待、両親の離婚と厳しい環境により笑顔を失っていた少年だったが、凍りついた心は家族の温かな光により徐々に溶かされていった。笑顔も戻り、打ち解け、家族の仲間入りをはたしたように思われたある日、少年はお父さんの財布を盗んだ。「恩を仇で返すのか」「信じられない」等、家族から罵詈雑言が浴びせられ、少年は涙した。一見少年に非があるようだが、少年は優しさや家族の絆を見せられること自体に戸惑いを覚えたに違いない。少しの仕草や言葉に疎外感を覚えたのかもしれない。羨ましさ、疎ましさ、愛おしさが複雑に交錯し、自分を保つ為の行動として無意識に「盗み」を選択したのかもしれない。人間という生き物は一筋縄ではいかない。

如来の光に照らされ浮かびあがった自らの姿を
「罪悪深重(ざいあくじんじゅう)の凡夫」と言う。

罪が重く・深いということだが、人によって受け取り方が様々である。
めちゃくちゃな遊び方をする人が「ああ、やっぱ罪悪深重の凡夫やね」というのは誤用であろう。如来の光に照らされて、気付けなかった自分の罪や矛盾に気づくことは多々ある。食べ物に対して「いただきます」「ごちそうさま」を言うが、最後の姿「うんこ」に対しては御礼をいわない。口に入れる時は御礼、でるときは「臭い臭い」としかめ面。自分の利益や目に見える「はたらき」ばかりを尊重する。喉様、胃様、腸様、消化酵素様あってのウンコ様でしょ。

魚の「いのち」をいただくとき、目の前にあるその「いのち」に手を合わせいい気になっているが、その魚が生きていたらこの先多くの子孫をつくっていたかもしれない。1匹奪うと言うことは、同時に未来の多くのいのちを奪ったことになる。「未来まで言うのはルール違反や」という話ではなく、その位の重さということだ。土を歩く時も、歩いたことで潰している「いのち」があるかもしれない。都合のいい時だけ懺悔して偉そうな能書きをたれるが、徹底できない。これが私のありようである。自分で認識できる罪というのは氷山の一角で、見えないところが大半を占めているのだ。深く重い…どれだけでも浅く軽くできるだけに肝に銘じなければいけないのである。

こんな我々が自分の力で「生死(いのち)」の問題を解決するのは至難である。
阿弥陀如来は、そのことを見抜き、衆生の力を頼ることなしに、我々を摂取する方法を完成してくださった。そのチカラの大きさは「無量無数」であり「無量不可思議」と我々の思考の範疇を超えたものとして示されている。
一方で人間には方向と形が必要なことも知っておられる。「ここから西に百メートル行ったところに安楽亭という居酒屋があります。現在も営業しています」と言われて初めて納得するように、「西方十万億の仏の世界を過ぎたところに安楽(極楽)という世界があり、今より十劫の昔に建立されて今現にある」と方角、距離、名前を明らかにして、私を摂めとる間違いない世界「浄土」が存在することを示し、凡情に寄り添ってくださる。しかしながら、日常ふとした瞬間に如来の恩を忘れていることに気づく。

夕方、三歳になる娘と境内を散歩している時のこと。散歩のついでに「歴代住職、有縁門信徒の墓をお参りしよう」と思いたち、墓前で手を合わせていると、娘が質問してきた。
「ここ遊ぶとこ?」
「ここは骨が入ってるとこよ。凛ちゃんの先祖や門徒さんの骨が入ってるんよ」「へえ~」
他の墓を指さし「これも骨が入ってるの?」
「うん。そうよ」
「これは?」「これは?」次々に墓を指さし骨の有無を確かめる。
長いことお寺に住んでいるが、これほど骨を意識したことはなかった。「この墓地にどれだけのカルシウムがあるんだろう?」と考えると骨が引き締まる想いがした。娘の「これはこれは」攻撃は続いた。キリがないので、「これも、これも、骨がはいってるんよ。人間はみんな骨になるんよ」と言い放った。娘はハッとした表情を浮かべ「凛ちゃんも骨になるの?」と「生死(いのち)」の疑問をぶつけてきた。
「そうよ。凛ちゃんも骨になるんよ。じいちゃんも、ばあちゃんも、父ちゃんも、母ちゃんも、晄ちゃん(1歳)もみんな骨になるんよ」
そう答えると、少しの沈黙の後「凛ちゃん骨になりたくない!」と大声で叫んだ。

「骨になるのは悪いことやないんよ。自然なんよ」ともっともらしく諭した後、身体になんともいえない違和感を感じた。「違うわ。身体は骨になるけれど、仏さまにならせて頂く人生だったな」今更ながらしみじみと思い、「ごめんね。父ちゃん間違っとった。みんな『まんまんちゃん』になったんよ。骨は抜け殻なんよ」とちょうど手に持っていた蝉の抜け殻を見せながら答えた。その答えに納得したのかしてないのかわからないが、黙った。

考えてみれば、親も友人も嫁も兄弟も子供も、いつか骨になりリアルな別れの日が訪れる。とても辛く嫌でしょうがない。しかし、絶望ではない。無量のいのちに摂めとられ、如来にならせて頂く尊い人生をお互い歩んでいるのだ。「今の歩みを終えて浄土へ参る」というものではなく、「浄土に参る人生を今歩んでいる」のだ。
限りある己の蝋燭が容赦なく燃え続ける中、太陽が西の空を真っ赤に染めた。

(平成25年2月の法話 担当:村上 慈顕)


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