浄土真宗本願寺派 小倉御坊 永照寺
永照寺
メニュー

今月の法話

今月の法話:2013年1月

睦月

愛する人を亡くした時に

仏祖の加護と皆様のお陰により新しい年を迎えることができた。昨年を振り返ると、新年にたてた目標のほとんどを達成していないことに気付く。昨年も多くの出会いがある一年だった。多くの別れがある一年だった。
職業柄、多くの愛別に携わった。多くの死体を見るうちに、皮膚の皮が分厚くなり死に対する恐怖や敬虔さが薄れていく。自らの都合で感傷に浸ることもあるが、大抵「仕事」として死を傍観していた。これは愛別に苦しむ家族に対して、自らの態度がどうであったかという問題にまで発展する。これから紹介する文章はリビング北九州に連載させて頂いている「愛する人を亡くした時に」というものだ。1つの話250字。もし今、愛しい人を亡くし苦しんでいる方が、このどれかの文章に希望を感じてくれたなら有難いことだ。

「愛する人を亡くした時に…」(1)
愛する人を亡くした時、高額な保険料を受け取れるか、犬猿の仲でないかぎり、深い悲しみに打ちひしがれるだろう。坊さんの法話すら耳に入らない。「出会いが人生を豊かにし別れが人生を深くする」「失った悲しみの深さは与えられていたものの大きさ」頭では納得しても、身体が納得してくれない。そういう時は 大声を張り上げ、泣き続けるのがいいかもしれない。どれだけみじめな姿をさらしても悲しみを悲しみのまま受けとめてくれる大地があり、あなたの「はからい」を超え、よりそってくださる大悲(ほとけのはたらき)があるのだから。

「愛する人を亡くした時に…」(2)
焼酎の水割りを飲んでいると、生(き)の焼酎とチェーサーの水を交互に飲んでいる紳士にこう言われた。「生で飲まな本当の味はわからん」 身近な人間の死を、周りの人々の癒しの言葉や慰めの言葉で薄めながらすごすのも悲しみを乗り越える1つの方法かもしれない。しかし、愛する人の死を生(き)で味わってみるのも大切なことだ。 私のいのちも有限なもので、この一瞬一瞬が輝いていること。悲しみの大きさは亡き人から受けた恩恵の大きさであること。死という尊い説法から何を聞いていくのか?残された人間にとって大きな課題ではなかろうか。

「愛する人を亡くした時に…」(3)
本当の死因は癌でも脳梗塞でもありません。生まれたことにあります。生き物が死ぬのではなく、死に物が偶偶(たまたま)生きているのです。沢山の死ぬべき縁をくぐり抜け偶然、呼吸をしているのです。様々な事象をこの理の中にあてはめていくと、「あるものが無くなる」のではなく「もともと無いものが与えられていた」ということに気付かされます。多くの偶然が重なり家族として出会うことができたのです。喪失の悲しみばかりに心を奪われるのでなく、同じ時代に生まれ、同じ時間をすごせた不思議に目をむけてみてはいかがでしょう。

「愛する人を亡くした時に…」(4)
愛おしい者を亡くした時、喪失と絶望と悲嘆に襲われます。平素は元気なようでも 1人になった時に悲しみの渦に飲み込まれてしまうこともしばしばあるようです。 「主人のいいことを思い出すと辛いから浮気されたことを思い出すようにしています」「思い出の品を●●質店に売りました」「遺産で得たものを数えるようにしています」「毎日お仏壇に話しかけています」様々な方法により悲嘆を和らげる工夫をされていることに気付きます。しかし、それは一時的なシノギにすぎません。また会える世界があるのだという阿弥陀経の言葉を胸に、生き切ってやりましょう。

「愛する人を亡くした時に…」(5)
「お酒飲む人 花ならツボミ 今日も 咲け(酒)咲け 明日も 咲け」という住職の挨拶を聴きながら、この詩が酒飲みの姿なら「お酒飲む人 散る紅葉 掃いても(吐いても)掃いても 掃き足りない」もまた酒飲みの姿だな。と密かに表裏の世界を味わっていました。世間では「無常」と言う言葉を、衰退、衰微など、勢いが衰える意味で使いますが、本来は「すべてのものは生滅して、常に変移している」という意味の言葉です。「花が散るのが無常なら花が咲くのも無常」なのです。愛別の苦しみを与えたのは無常であり、愛別の苦しみを癒すのも無常なのです。

(平成25年1月の法話 担当:村上 慈顕)


アクセスAccess

〒803-0814
福岡県北九州市小倉北区大手町16-16

tel:093-582-7676

tel:093-582-7676