永照寺は雲龍山と号し、浄土真宗本願寺派(西本願寺)に属する寺院です。この寺の開基は釈道證で、本願寺第八世蓮如上人によって剃髪しています。
道證はもと村上大炊允道定と称し、豊前国蓑島の塁をあずかる武将でしたが、応仁の乱に加わり、摂津国川中島の戦で傷を蒙り、溝杭仏照寺に於て加療中、
蓮如上人の巡化に遇い発心出家してその弟子となりました。
明応4年9月28日(1495)、本願寺実如上人より本尊を下附され九州に下国し、当時一寒村に過ぎなかった小倉津に草庵をいとなみました。
文化年間に書かれた永照寺山門のにぎわい
三代西蓮の時、高橋参河守穐種が小倉を領しましたが、その室が当寺を崇敬し保護を加えています。
続いて慶長3年毛利壱岐守が入国し、当寺の殿堂を潤色しました。
同7年細川忠興豊前を領し、小倉城築城のため寺地を室町より米町の地に移しました。松林を切り拓いて寺地を造成したと記録されています。
細川氏肥後転封の後を嗣いだ小笠原忠真(ただざね)公も当寺を崇敬しました。当時の住職第六世西吟は本願寺初代能化(のうけ)を拝した学僧で、広く仏学に通じていたため、公も西吟に師事しました。
公が西吟に送った仏教に関する質問書が数通寺宝となっています。
一切経の造版で有名な鉄眼(てつげん)も若年の頃西吟の門に連なったことがあります。
その後代々学僧を輩出し、地方教化の中心をなしました。
元文5年8月の上書に「当寺の末寺に属する者一百二十有九ヶ寺(各々豊前筑前肥後長門の四州に在り)又当寺の管下に属する者(管下を以て俗に触下と唱す)四十有四ヶ寺(各々豊前六郡に在り)なり」と見えています。
第十四世西章の代、文化年間に御坊(ごぼう)となりました。
御坊とは本願寺の出張所で、明治40年門司鎮西別院が建立されるまでその役を果たしました。
明治五年、末寺、寺家をそれぞれ独立せしめました。
平成3年、小倉駅前再開発事業に伴い、米町より大手町に寺基を移しました。
本堂は開基以後、慶長年間、元禄年間、弘化年間にそれぞれ造立され現在の本堂で5回目の造立になりますが、内部の柱、梁の殆どは弘化年間に建立された本堂の資材を移築してあります。
太鼓堂は、この地方では珍しい二層式の鼓楼です。
永照寺門前/昭和10年発行「小倉名所絵はがき」
明応4年永照寺を建てる
大永2年2月10日往生89歳
天文21年4月19日往生
享年80歳
文禄2年7月18日往生
享年74歳
慶長11年大僧都法印を任せられる。
元和7年6月5日往生
寛永11年9月18日往生
初代能化(本願寺の学問の最高責任者)
寛文3年8月15日往生 享年59歳
慶長10年に豊前小倉米町の永照寺、西秀の子として生まれました。
幼少の頃は学問を嫌っていたようですが、記憶力は優れていたと伝えられています。
長じて小倉の圭西堂や豊後の雪窓などに師事して禅を学びました。また肥後の延寿寺、月感(えんじゅじ、げっかん)と共に、了尊に師事して真宗宗学を学びました。遊学の後、自坊に戻り真宗宗学の研鑽と子弟の教育に励みました。正保4年能化職(のうけしょく)を命じられました。
寛文12年11月23日往生
享保7年12月25日往生
正徳4年12月10日往生
元文3年3月15日往生
宝暦12年10月3日往生
安永3年4月25日往生
天明7年12月往生
文化11年2月15日往生
明治6年12月12日往生
明治27年1月6日往生 享年47歳
昭和6年6月6日往生
昭和20年10月20日往生 享年50歳
昭和56年2月7日 享年65歳
前住職
現住職
右上が初代で少し下がって左が2代目4代目が金色の衣この要領で12代目までの御影が書かれています。