いのちのポイ捨て
少し前の話だが、先輩が高い所から飛び降りた。
まわりからは「自殺未遂」と言われた。しかし、先輩は意外なことばを口にした。
「全く死ぬつもりもなかった。気付いたら勝手に飛んでた」若い時から精神の病を抱えていて、ハイになるとなんでも出来るという錯覚に陥るのだ。
この場合、自死なのか。癌や心筋梗塞のように「病」とは呼べないのだろうか。そもそも人間が「自ら選んで死ぬ」ということってあるのだろうか?私という「因」に、いろいろな「縁」が重なり、「生きる」と「死ぬ」という選択ができない「果」が整った。こういう考えはおかしいかな。ちゃかす問題ではないから、テレビやマスコミでこうも真っ向から討論する。その結果、火の粉をかぶりたくないから偽善的で、道徳的な言葉が空を切る。
富士の美しい景色を守りたい人が「東京で死ね」という看板を富士の樹海に設置したという。死のうと思ってこの看板を見たら、私なら死ぬのが馬鹿らしくなる。みんな知ってる。「いのちが大切」なことも「死んでは駄目」なことも。それが「出来ない自分」だから苦しんでいるのだ。「死んでは駄目」、「いのちは大切」という言葉を簡単に使うが、そのような安易な言葉が胸をエグルのだ。「お前の死なんか景観をみだすだけで、糞程の価値もないものなんだ」といわれることでDNAの根底に流れる生きる欲望に熱い炎が点火する。
富士の美しい景色を守りたい人が「東京で死ね」という看板を富士の樹海に設置したという。死のうと思ってこの看板を見たら、私なら死ぬのが馬鹿らしくなる。みんな知ってる。「いのちが大切」なことも「死んでは駄目」なことも。それが「出来ない自分」だから苦しんでいるのだ。「死んでは駄目」、「いのちは大切」という言葉を簡単に使うが、そのような安易な言葉が胸をエグルのだ。「お前の死なんか景観をみだすだけで、糞程の価値もないものなんだ」といわれることでDNAの根底に流れる生きる欲望に熱い炎が点火する。
※浄土真宗本願寺派 教学伝道研究センターが原始仏典と大乗仏典にさかのぼり自死(自殺)に関連する仏典の記載600箇所余りを調査した結果、下記のような結論となった。
『釈尊は自殺について価値判断していない。仏典は、ぎりぎりのところまで「生きていてほしい」と呼びかける一方、自殺そのものについては、良いとも悪いとも語っていない。 釈尊の時代には、正面から自殺の問題に向き合っていた。是非論ではなく、当事者の苦しみを受け入れていくことこそがテーマとされていた』
(平成24年11月の法話 担当:村上 慈顕)