はからいを超えて
「不浄にて 申す念仏の とがあらば 召し籠めよかし 弥陀の浄土へ」
(訳) トイレでお念仏を申すことに、何か罪があるというならば、
どうぞ私を召し取って、阿弥陀様の極楽浄土浄土へ閉じ込めてください
(『法然聖人絵』 弘願本巻二)
亡き義父の愛別の悲しみが日を追うごとに色濃くなる。桜の花が冬の寒さを糧に、精一杯に花を咲かせている。いつもは「綺麗」に目がいくのに散る「はかなさ」に心を奪われてしまう。人間とは勝手な生き物だと己の姿を通し、痛感させられる。
花咲かす 見えぬいのちを 春と言う。
義父の残した言葉に、しみじみ「見えぬいのちに生かされている私」という味わいを深めるのである。見えぬ本願が頂けたのは気付かないところで動いていた、多くの方々の苦労、はたらきに他ならない。信心を頂いたなら、生き方が少しづつ仏様を軸としたものに転換されていくのである。 いつでも、どこでも一緒の阿弥陀様。この口が無量寿の出入り口になる。 いつでも、どこでも。
京都時代、ある先生がトイレに行って必ず念仏を称えていた。その声は小の時には小さく、大の時には大きい。トイレで居合わせるのが楽しみになってくる。その所作をいつも笑っていた。あの頃の自分は気付けなかった。「浄・不浄を決めているのは人間の主観にすぎない」という当たり前のこと。「ウンコ様に姿を変えるまでの多くの苦労に手が合わさった」ということ。
先生が出遇ってた世界の方が遥かに大きかったのだ。この出来事を通して自分のものさしの不確実さを再認識した。
(平成25年3月の法話 担当:村上 慈顕)